「左脳派」だと思っていた私が、右脳開発を辞めた理由

23年目の現場でようやく繋がった「直感」と「直観」の回路
約23年、ペットシッターという仕事をしてきても、私は自分のことを「完成されたプロ」だと言い切ることに、どこか小さな違和感があります。
もちろん、お預かりする命に対する責任はプロとして100%背負っています。
けれど、その内側では、いつまでも一人の「観察者」であり「探求者」でありたい。そして、結果として飼い主さんや動物たちの「伴走者」であれたらと願っているからです。
「直感」という言葉へのコンプレックス
これまで、私は自分のことを徹底した「左脳タイプ」だと思ってきました。何事も理屈や論理で考え、体系立てて理解することを優先する性質。
だからこそ、巷で言われる「直感」という言葉には、どこか距離を感じていたのです。
ここで私なりの整理をしておくと、「直感」は理屈抜きの瞬間的な感覚、「直観」は経験と知性が育てた本質を見抜く力、という区別で使っています。
「自分には、あの鮮やかな『ひらめき』は備わっていないのではないか?」
そんな不足感をどこかで抱えていて、実は右脳を開発しようと速読スクールに通ったりもしていました。
憧れの裏側にあった「答え合わせ」
私が惹かれるのは、ロジカルで合理的に言語化のできる人たちです。
でも、なぜそういうタイプの方々の発信が私にとってこれほど心地よいのか? ずっと不思議でした。その答えが、今回ようやく見つかりました。
そういう人たちは、単に数字に強いだけではない。その冷徹なロジックの奥底に、圧倒的に鋭い「右脳的なセンス(直感)」を秘めているのだと感じたからです。
あくまで私という一人の「観察者」のフィルターを通した見方ですが、彼女たちは直感で捉えた「世界の真実」を、圧倒的な語彙力と知識というツールを使って、誰もが納得できる「言葉」へと昇華させている。
その「右脳のセンスを取りたてて表に出さず、知性の力で形にする」という高度なバランスに、私は強烈に共感していたのだと気づきました。
一方で、私はある表現者の方にも、言いようのない心地よさを感じていました。彼女は画家でありながら、物理学や神話、地政学等にも精通し、「目に見えない世界」を扱う方です。
けれど、彼女の語る言葉には驚くほどの構造理解と論理があり、筋が通っています。
そこで、私は確信しました。
左脳的な人が、実は圧倒的な「感覚」を言語化という力で包み込んでいる。
右脳的な人が、実は凄まじい「論理」という力で、世界を構造化している。
アプローチの入り口は真逆に見えても、彼女たちがやっていることは同じなのです。
それは、「直感で捉えた真実を、知性(直観)という形で照らし出し、差し出している」ということ。
そして、それこそが私が目指してきた状態だったのではないか、と思うに至ったわけです。
現場で起きていた「自動的な連携」

では、実際の現場では何が起きているのか。
ある時ふと、仕事の現場で「ん?」とか「あれ?」という違和感をかなりの数感じている事実に気づきました。
あまりに自動的すぎて自分でも気づいていませんでしたが、私の脳内では「ん?(直感)」と思った瞬間に、猛烈な勢いで「なぜ?(分析・直観)」という調査が始まっていました。
直感が発現するとほぼ同時に、直観も作動し始める。
この数秒の連携があるからこそ、言葉を持たない彼らの小さな変化をキャッチできているのではないかと思えるようになりました。
ある猫ちゃんと対面したときのことです。
玄関を開けた瞬間、私のセンサーに触れたのは、どこか「重い空気」と、いつもより「暗い表情」をした姿でした。
具体的な理由はまだ分かりません。けれど、脳内のセンサーが「なんだろう?」「いつもと違う」という信号をどんどん送ってくる。
これこそが、私の「直感」でした。
20数年の経験が、無意識下でスキャンし、警報を鳴らしていた。
この流れがあまりに自動的すぎて、自分ではそれを特別なことだと思っていなかっただけでした。
知識を「答え合わせ」に使う贅沢
私が大切にしているのは、感じた違和感に対して、すぐに手持ちの「知識」を当てはめないことです。
知識を先行させすぎると先入観になり、目の前の動物が発している「本当のサイン」を歪めてしまうからです。 だからこそ、私はまず「観察者」に徹します。
呼吸、目の輝き、飼い主さんからの言葉との照合。バラバラだったパズルのピースが、ピタピタッと繋がっていく瞬間。
「この重そうな空気感の正体は心臓か肺に何かが起きているからだ」 その確信に至ったとき、初めて知識は「答え合わせ」の道具として力を発揮します。
私が飼い主さんに「得た確信」を伝える場合、不安を肥大化させないことを心がけています。でも、できるだけ早く対処したほうが良いケースもあります。
そんな時には「私ならこうします」という、今すべき具体的なアクションを率直に伝えます。
あとの判断は飼い主さんに委ねる。
伴走者として、この「直感から直観への橋渡し」が、自分でも驚くほど無自覚だったことにようやく気づけました。
完璧ではないからこそ、研ぎ澄まされる
自分を「完成されたプロ」だと思わないからこそ、私はできるだけ先入観のない感覚を持って、目の前の命の「微かな声」に耳を澄ませることができる。
動物たちの個性は本当に幾通りもあります。
「この子はこうだから、こう」と安易にカテゴライズしてしまうと、見逃してしまうサインがあるのではないか。私はそれを懸念しています。
だからこそ、敢えて「完成させない」という立ち位置こそが、私の独自性であり誠実さであると考えています。
「自分にないもの」を外に探しに行くのは、もう終わりにしよう。
そんな次第で、右脳開発を目的とする速読スクールも卒業することにしました。
外に求めていたものが、実はとっくに自分の中で動いていた。そのことに気づけただけで、十分な収穫でした。
おわりに
理屈っぽい私の頭の中は、いつもこんな風に大忙しです。(笑)
昨今、自動思考はネガティブに捉えられる風潮もありますが、その巡る思考が自分や他者のジャッジに結びつかないものであるならば、私はそれを肯定したいと思っています。
考えて、考えて、考え抜いて、脳みそがキャパオーバーになった時にふと降りてくる「ひらめき」。それもまた、一つの個性です。
考え続けることに疲れた時は、メタ認知に「お出まし」願ってオンとオフを切り替えればいい。
この騒がしくも、ど直球な伴走の仕方が、私という人間なのだと思います。
もしかすると、このブログを読んでくださっているあなたの中でも同じことが起きているかもしれません。
“自分には直感がない”と思っている方ほど、一度立ち止まってみてください。
もしかすると、既にずっと動いていたかもしれません。(^_-)-☆
「すべて既にある」
という不可解な言葉の意味が、こうしてまたひとつ私の中で分解され、理解できたような気がしています。



